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文久3年8月28日(1863年10月10日)

【京】島津久光・山内容堂・鍋島斉正に勅召
【京】因幡・備前・阿波・米沢藩、攘夷監察の勅使東下を建議
【京】朝廷、紀州・津・彦根・郡山に天誅組追討令
−天誅組、十津川退却の軍議

■政変後
【京】文久3年8月28日、薩摩藩国父島津久光、前土佐藩主山内容堂、前佐賀藩主鍋島斉正に上京の勅が下りました。 特に、土佐藩は、京都警衛のための藩兵を上京させるように命じられました。

<ヒロ>
政変翌日の19日に、近衛忠煕前関白父子(薩摩藩と姻戚)は島津久光に上京を要請していました。孝明天皇もこれまで、激派を抑えるための島津久光の入京を願ってきており、政変後も期待するところあり、速やかな勅となったのだと思われます。(春嶽との対応の差が・・・・)

参考:『維新史』三(2001.10.10)
■テーマ別文久3年:「島津久光召命

■攘夷別勅使
【京】文久3年8月28日、因幡鳥取・備前岡山・阿波徳島・米沢の四藩は勅使を関東に派遣し、幕府の破約攘夷(横浜鎖港)を監察させることを建白しました。

<ヒロ>
政変で激派公卿は政局を去りましたが、孝明天皇の強い攘夷の意思は変わらず、すでに政変当日に幕府に攘夷督促の沙汰を下していました。また、政変に協力した在京有力四藩も、いわゆる「無謀の攘夷」には反対の立場でしたが、破約攘夷の実行自体には期待していました。(因幡・備前の両藩主は水戸の徳川斉昭の五男と九男で、父親譲りの攘夷主義者です)。

ちなみに彼らは、8月23日に長州藩と七卿について、寛大な処分を請う上書を出しています(こちら)

関連:■テーマ別文久3年:「横浜鎖港交渉
参考:『徳川慶喜公伝』2(2001.10.10)

■天誅組
【京】文久3年8月28日、朝廷は紀州・津・彦根・郡山藩に天誅組の追討令を出しました

<天誅組の動き>
これより先、土佐の吉村寅太郎、藤本鉄石、松本奎堂ら数十人の激派浪士らは、大和行幸(攘夷親征)計画に呼応し、前国事寄人中山忠光を擁して大和へ出奔して天誅組を名乗り、攘夷先鋒を標榜し、17日には天領の引渡しを拒んだ五條の代官を殺害していました。18日の政変の報が届いたときには一同愕然としたものの、十津川郷士を募って初志貫徹することと決めました。26日、十津川郷士の合流を得た天誅組は、兵糧調達を拒んだ高取城(五條近郊の山城)を攻撃しましたが、総崩れとなり、天ノ川辻(てんのかわつじ)に退却していました。

この日、軍議を開いた天誅組は、<京都の根本が崩れて親征も中止となり、姦徒(=会薩ら公武合体派)が朝廷政治を思うままにし、長州も退いた今となっては、味方に来るものはなく、自然と、朝敵ども(=会薩・公武合体派公卿ら)より、自分たちが朝敵の名を蒙られることは必然である。そのとき、兵力をもって手を広げることは困難である>とし、<これから十津川山中にこもり、機会をうかがって、紀州の新宮を襲撃し、船で四国・九州に渡って、再度義兵を募ろう>と決めたそうです。(「大和戦争日記」『維新史』より口語訳byヒロ)

<朝廷の動き>
同月18日政変後、朝廷は天誅組が勅命を奉じていると称しているのは誤りであるとして鎮撫の布達を行いました(同月20日)。さらに、同27日には十津川郷士に向けて、<中山侍従を勅使として差し出したことは一切ない>との沙汰が伝えられていました。

参考『維新史』三(2001.10.10)
関連: ■「開国開城」8/10月:大和の乱・生野の乱 ■テーマ別文久3「天誅組

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